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自由
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人には言えない程に、本性は自己中心的で自己顕示欲と承認欲求の塊だ。ある程度は悪いとは思わないが、いきすぎたそれをなんとか隠して、皆平然と生きているのだろうか。そして自分はそれに加えて薄情で怠惰なので、望んで産まれた訳でもないのに社会で生きるための学校だの仕事だの、まるで意味が分からない。人生にだって意味はないのだろう。それを自分で見つけられて、それを掴むためにひたむきになれる人は、認められ、きっと幸福に生きられる人だ。しかし自分は先述の通り怠惰なので、だったら終わらせたほうがいいと思う。しかし怖いし、悲しませてしまうかもしれないから生きている。それでも生きているだけでは認められない。望んで産まれた訳でもないのに。考えたって仕方がない、考え過ぎだ、と思えるようになれるとは、今の自分は到底思えない。(それでも一寸の希望みたいなものをもって、今の、とつけたが。)食べ物は美味しいし、たまに笑う時は笑う。あまり会わないけど家族も友人も数える程度はいるし、性欲は凄くあるし、正直に言えば見た目だって少しばかりは恵まれていると思う(言われる)けれど、それでも、どうしてもニヒリズムみたいなものが子供の頃から自分の中に霧のように漂っていて、何より努力が大嫌いで、本当に子供のまま歳だけ重ねてしまった。家族から愛されて、特に何か責任もなかったのに、虚しさや寂しさが絶えなかった子供に戻りたいと、(年齢だけ)大人の自分は思う事がある。泣き虫で、弱くて、人に傷つけられて人を傷つけてしまった子供の頃に。生きる事に向いてない人間だっていると思う。そして自分をそうさせたのは生まれながらの自分で、生きてきた自分で、それから社会と、そしてあいつだ。 人に親切にするのは割に好きだが、自己満足だという事、そしてそう言っておいて結局それで終わり。満足もしない。ただ自信の無い自分の負のアイデンティティになっている。そして本当に、努力が大嫌いだ。そりゃあ、こんな世界とは馬が合わない。 こんなだからきっと、これまで満たされたと思う事がなく、そして結局そんな自分に陶酔することで、束の間の自惚れを貪っている。 望まずに産まれたのだから、死ぬタイミングくらい自分で決められたら、などという事は不謹慎か。倫理的に、というよりかは、望まずに命を失った人、そしてその周りの人に対して。唐突にこんな配慮じみたことを言うのだって、結局卑しい自分を守っているつもりの予防線。怖い。寂しい。嫌い。辛い。 本当は愛されたい。愛してみたい。でも愛される努力は面倒くさい。ほら、イヤな子供じゃないか。 太陽の光を憎み、日陰を這ったり、うずくまったりしている、醜い自分の姿が見える。
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