もしもの話なんだけど、「臓器提供してくれるなら、人生の途中での安楽死を許してあげるよ」って制度ができたとして………わたしはそれを利用するだろうか………?って考える。
提供した臓器は、病気で入院中の幸せで優しい人たちに移植されるものとする。その制度は国が公に認めており、世間にも受け入れられているものとする。それに同意すれば、安全な安楽死を受けられるものとする。
その制度があること自体は、きっと希望になる。
でも、わたしの細胞が入り込んだものが、他者のなかで生き続けることになってしまう………
わたしは死にたい。死という幸せを享受したい。
だが、わたしは消えたい。存在そのもの、生きた痕跡、そのすべてを消し去りたい願望がある。
毒父の遺伝子を、毒母の遺伝子を、後世に引き継ぎたくない………それがわたしの願い。
わたしは死について日常的に考えているのに、いまだに「死後の臓器提供」の項目に意思を書き記せないでいる…………
自分の命が大切じゃないからこそ、絶対に他者への提供をゆるしたほうが、便利だし、人の役に立てるのに………
それに、わたしの死体が家族に引き渡されるのもダルい。たとえ家族が欲しがったとしても、わたしはそれを喜べない………
それだったら、愛されてて生きたい人に貢献したほうが絶対にいい。
絶対にいいのに。
自分の死後、自分の細胞が世に残るのが気持ち悪い………
感覚として、気持ち悪い。
わたしは胃が弱い。そういった弱点の数々を、提供を受けた側に引き継いでしまわないだろうか………?
わたしの抱えた心の闇が、細胞を通じて、その人を汚染してしまわないだろうか……? 心を蝕む結果になってしまわないだろうか。
自分に価値を感じないからこそ、他者への提供に躊躇する。
自信を持って譲れるほどいい体してない。健康じゃない。
もしかしたらわたしの懸念はオカルトチックで非科学的なのかもしれないけど………
叶うなら、存在ごと消えてしまいたい。
それでも、そんな信念を手放したくなるほど、生きることが辛くなったとき。わたしはその制度を利用するのだろうか………?