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自由
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今日は、母は機嫌がよろしいようです。 家に全員いるからでしょうね。 見たくもないYouTubeをつけられる 不倫・浮気の制裁YouTube おじさんたちの意味の分からないYouTube 何一つ面白くない。 スマホ触ってたら「ずっとスマホばっかり」 と言うけど、興味ないもの見てるより自分のスマホでNetflix見てるほうがよっぽど良い。 母の提案は、全て「いいよ」と言うのがルール。 ご飯食べに行こうを断われば、すぐ機嫌が悪くなる。 「ご飯作るのめんどくさいから言ったのに。作れって事ね、はー。」 だから、お金無い無いって言うくせに外食が多いしそのお金は私のお金だよ。 こーゆう親ってなんて言うんだろ。 毒親なのだろうか。 そして私は、アダルトチルドレンなんだろうか。 感謝はしてるけど嫌いだ。 自己肯定感も低いし、他人に褒められても疑ってしまう、断れないし、人の顔色みて期限を見て行動してしまう。 好きな人に対しても嫌われたくないが勝ってしまう。だから本音が言いたいのに言えない。 言って嫌われたらどうしようってなる。 苦しいな毎日。 実家を出たいのにね。お金も溜まってるのに。 言い出せないし、言っても全力で否定か怒鳴られる。思いどおりにさせたいから。 普通の親って、普通の家族ってどんなんなんだろうか…
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愛しているから、縛る。 ーーそれは、本当に「愛」なのだろうか。 「あなたの為だから」 「心配だから」 「大切だから」 「好きだから」 目の前の人を大切にしようとする時、私達は、このような言葉を使う。 だからこそ、時々考えたくなる。 「大切にしたい」 というその気持ちの正体とは。 本当に相手の為なのだろうか。 それとも。 「あなたの為」 という言葉の奥に、 「だから、私の言うことを聞いて」 という気持ちが、隠れてはいないだろうか。 『愛するということ』 エーリッヒ・フロムはこの本の中で、愛と支配を明確に区別した。 愛する能力がない人は。 相手を支配しようとする。 何故なら、支配するためには。 相手が、自分から、離れられないような。 無力な存在でなければ、ならないからだ。 相手が自分で考え、自分で選び、自分で歩けるようになれば。 いつか、自分の支配から、離れていってしまうかもしれない。 だから、相手の自立を恐れる。 「あなたには無理」 「私がいないと駄目」 「あなたの為を思って言っている」 そうやって、相手の無力さを強調する。 相手を助けているように見せながら。 実は、相手が自分から、離れられないように、してしまう。 それは、愛なのだろうか。 ⸻ フロムが考える愛。 そこにあるは4つ。 基本的な要素がある。 配慮。 責任。 尊重。 知識。 まず、「配慮」 愛するとは、相手の生命と成長を、積極的に、気にかけること。 「好き」 とただ思うだけではない。 相手が生きること。 相手が成長すること。 相手がその人自身の人生を歩いていくこと。 そのことを大切にする。 だから愛には、 「働く」 という側面がある。 大切に思うなら、その人の為、何かをする。 育てる。 支える。 必要な時に手を差し伸べる。 愛は、ただ心の中にある感情ではなく、行動になるものなのだ。 ⸻ 次に、「責任」 ここでいう責任は、 「義務だから、やらなければならない」 という意味ではない。 誰かが助けを求めている。 苦しんでいる。 何かを必要としている。 そのことに気づいたとき、 「誰かがやるべきだから」 ではなく、 「私が応えたい」 と、自分の意思で応答する。 それが、フロムのいう責任だ。 ⸻ 3つ目に、「尊重」 相手を助ける。 相手を心配する。 相手の為に働く。 それだけでは、まだ、 「愛」 にならない。 何故なら、そこから簡単に、 「私があなたを助けているんだから、あなたは私の言うことを聞くべきだ」 という支配が生まれてしまうからだ。 だからこそ、尊重が必要になる。 尊重とは、 「あなたは、あなたである」 と認めること。 自分とは違う考えを持ち。 自分とは違う価値観を持ち。 自分とは違う人生を生きる。 唯一の人間として相手を見ること。 そして、 「私のために、私の望む人間になってほしい」 ではなく、 「あなた自身のために、あなたらしく成長してほしい」 と願うこと。 ここに、愛と所有の大きな違いがある。 恋人だからといって。 恋人は自分の所有物ではない。 親だからといって。 子供は親の所有物ではない。 友人だからといって。 友人は自分の思い通りになる存在ではない。 「大切な人」と。 「自分のもの」は。 同じではない。 寧ろ、本当に大切に思うからこそ。 相手には、自分とは、違う人生があることを、認めなければならない。 自分の側にいてほしい。 自分を選んでほしい。 自分を好きでいてほしい。 そう願うこと自体は、悪いことではない。 けれど。 「そうしてほしい」と願うことと。 「そうしなければ許さない」と縛ること。 これは違うのだ。 愛することと、所有することは違う。 ⸻ そして、4つ目に、「知識」 人を知るというのは、 「この人は怒っている」 「この人は冷たい」 「この人は面倒な人だ」 と、表面だけを見ることではない。 何故怒っているのだろう。 本当は不安なのではないか。 心配しているのではないか。 孤独なのではないか。 罪悪感を抱えているのではないか。 その人の言葉や行動の奥にあるものまで、 「この人は一体何を感じているのだろう」 と知ろうとする。 勿論、相手を理解することは、相手の行動を、何でも許すことではない。 怒鳴ることを、理解したからといって。 怒鳴られても、我慢しなければならない。 決して、そういう訳ではないのである。 傷付ける行為を理解したからといって。 それを、受け入れなければならない。 決して、そういう訳ではないのである。 ただ、 「悪い人だ」 と決めつけて、終わらせず。 その人を、1人の人間として見ようとする。 それが、フロムのいう「知」なのだと思う。 ⸻ そして、1つのことに気づく。 愛することは、意外なほど難しい。 何故なら、愛には保証がないからだ。 自分が大切にしたからといって、相手も自分を大切にしてくれるとは限らない。 自分が信じたからといって、裏切られないとは限らない。 自分が手を差し伸べたからといって、その手を握り返してくれるとは限らない。 それでも尚、 「それでも、この人を大切にしたい」 と行動する。 フロムは、それを「信念の行為」と呼ぶ。 だからこそ人は。 「愛されないこと」 を恐れているようでいて。 「愛すること」 そのものを恐れているのかもしれない。 本当の、本当は。 ⸻ 愛されたい。 大切にされたい。 必要とされたい。 捨てられたくない。 傷付けられたくない。 それは、ごく自然な願いだと思う。 しかし、 「愛する」 ということを考えるなら。 もう1つ。 自分自身に問いかけなければならない。 私は、相手を愛しているのだろうか。 それとも。 相手を失いたくないだけなのだろうか。 私は、相手の幸せを願っているのか。 それとも。 相手に私を、幸せにしてほしいだけなのか。 私は、相手の成長を喜べるだろうか。 それとも。 相手が、自分から、離れていくことを恐れて。 成長さえ、止めようとしていないだろうか。 「あなたの為」 と言いながら、 「私の為」 というように。 …そのように、なっていないだろうか。 ⸻ 愛することは。 相手を自分の側に置いておくことではない。 相手を自分の思い通りにすることでもない。 相手から自由を奪うことでもない。 相手が、その人自身として生きていけることを願うこと。 そして、そのために、 配慮し。 応答し。 尊重し。 知ろうとすること。 それが、フロムのいう、 「愛する」 ということなのだと思う。 だからこそ、愛は怖い。 相手には、自由があるからだ。 そして、自由があるということは、 「自分を選ばない自由」 相手には、それもあるということだから。 それでも。 相手を、自分のものにしようとはせず。 相手の自由を、奪おうとはせず。 相手が、自分自身の人生を歩いていくこと。 私は願う。 たとえ、その道が。 自分とは違う方向へ、続いていたとしても。 それでも、 「あなたが、あなたらしく生きられることを、私は願っている」 と言えるのか。 もしかすると。 愛するということの難しさ。 それはそこにあるのかもしれない。
自由
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