自分の思考が他人とかけ離れすぎていて生活しづらい。
例えば、「喫煙所をなくそう」という取り組みについて。喫煙所をなくした後、代わりにトイレの個室でスマホをいじってサボっている人のことは咎められない。元々喫煙する人たちが強制的な禁煙で業務効率が下がっていることには誰も触れない。かつて喫煙所で言われていた悪口は給湯室や倉庫の奥に場所が移っただけ。こういうことに気づいてしまうのが、とても生きづらい。自分の同世代の多くが、「喫煙所がなくなって清潔になってよかった」という表面のメリットしか見ていないし、「会社内の喫煙所廃止」とは無関係の路上喫煙者に対する愚痴などを言っていて、論点ずらしも甚だしいと思っている。
ちなみに以上は例であって、自分は非喫煙者である。こういう意見を発言すると「あなたも喫煙者ですよね?」などと決めつけてくるのも視野が狭いと思う。
とにかく、他人と自分の見えている世界が違い過ぎて、とてもストレスだ。
二項対立になったときに、どちらかだけの味方になれる人生のほうが、きっと活力があって幸せだったと思うし、仲間もたくさん出来たと思う。他人が気にしていないことに気づかない人生を歩みたいけれど、気づいてしまうことをやめることはできない。気にしないこともできない。
何か議論になって前向きに進もうという方向になると、反対意見ばかりが頭に浮かんでイライラしてしまう。他人に流されることを何とも思わない人生を歩みたかった。
自分の性格は、災害時などにはメリットにもなるのかもしれない。でも、3.11.の大津波から1人で別ルートで逃げて助かった男の子は、大人になった今、会見で同級生遺族に「自分だけ助かるのはずるい」と非難を浴びていた。自分は何かあった時、ずるい生還者になって、精神を病むんだろうな。私は全ての人が対等に好きだし、この社会が好きだから、この世の中を良くする方向に貢献したい。でも、もし自分だけが逃げ道を見つけて命からがら逃げ切ってしまったら、他の人に対する罪悪感を持つだろうし、それに加えて遺族からは「あんたが死ねば良かったんだ」と言われて罪悪感に拍車をかけてしまう。「社会や他人に貢献したいのならば、罪悪感を持つことは偽善だ」という言葉も、遺族の会で耳にした。
だから多分、一生かけても償いきれない。だからといってもしそこで「遺族に『死ね』と言われたから」という理由で自殺しようとしたら、どうせ「死なないでほしい。亡くなった自分の家族が報われないから」とか言い始めるんだと思う。だから八方塞がりになる。
本当に、自分という人生は生きづらい。他の人にも生きづらさは各々あるんだろうけど、自分と同じ類の生きづらさを感じている人には、今まで一度も巡り会ったことがなくて、それが孤独に感じる。