「病気と共に生きる」について考えてみた
私はこれまで、病気を「外から飛んできた雑草」のように感じていた。寄生され、コントロールできないものとして拒絶してきた。だが、雑草では説明できない違和感がずっとあった。文字にしながら探すうちに「ひこばえ」という言葉に出会い、腑に落ちた。ひこばえは木の根から芽吹く再生の力。そうか、私の病気も私の一部であり、再生しようとする力だったのだ。
躁は満たされない不調を癒そうとして活動や感情を増幅させ、鬱は疲れを癒そうとして眠りや思考停止をもたらし、混合はその両方を試みた。どれも私を壊すためではなく、私を回復させようとする自然治癒力の現れだった。ナイチンゲールが「病気は回復過程」「症状は自然治癒力の発動」と説いたことを、私は今、自分の身を通して理解したのだ。学生時代は暗記で通り過ぎた言葉が、今になって血肉を持った。
拒絶感は消えた。病気ももう一人の私だからだ。ただ、再び振り回される恐れは残っている。けれど、その恐れを「備え」に変えることができる。内なる自分と話せなくなったら、ひこばえが伸びすぎたサイン。そう気づいたら「少し辛くなってきたね。でもまだ間に合う。家族と過ごそう」と声をかける。そして見失ったら人に相談する。そうした観察とセルフケアの計画を立てることで、恐れは管理可能なものになる
すべてを理解されなくてもいい。私の経験や言葉の一部が、今苦しんでいる誰かの心を少しでも和らげ、自分を癒そうとする力を思い出すきっかけになればそれでいい。病気は私を壊すものではなく、私を癒すために現れた再生の力。その気づきを記録し、語り、分かち合うことが、今の私の歩みとなっている。