今から書く内容は、読む人にとってはとても嫌味に感じると思います。
私は子供の頃から人より頭が良かったです。
親と話しているときも、クラスメイトといるときも、先生といるときも、私の考えている事、感じた事については興味を持ってもらえませんでした。
なぜなら、普通の人は国語辞典を読み通そうとしないし、数学が楽しいとも感じないからです。
世の中の仕組みについて知ることがただただ楽しいと感じる子供でした。
社会人になって、「世の中は知的好奇心が低い人たちが大多数で、ほとんどの人は目先の利益か自分の身の回りの生活しか気にしていない」と気が付きました。
大人になったら、私のことを分かってくれる人がいると思っていました。
でもいませんでした。
地頭が良いというのは、個性の一つだと私は思っています。たまたま背が高い人、足が速い人がいるように、私はたまたま地頭が人より少しだけ良いように生まれて来たのです。
社会で人と関わるときは、脳みそのギアを下げて生活しています。余計なことを考えずにテキパキ動ける人のほうが評価されるからです。下っ端には自分の考えは求められませんから。
人との関わりに苦痛を感じます。
誰と話したところで私の趣味を理解する人がいないからです。
人を馬鹿にしたいわけではありません。実際、社会に適応するには知性より素直さの方が役に立ちます。素直に、人と協力し合って、楽しく毎日を過ごすのが人として正しい暮らし方だと思います。
それでも私は孤独なんです。
脳のギアを下げて暮らすことは、
足の長さが30センチの人が25センチの靴を履いて暮らすようなものです。
窮屈で苦しいですが、25センチの靴しかなければ無理してこの靴に足を合わせるしかありません。
いつだって、自分の言葉で人に何かを語ることはできません。私が普段使う言葉は難しく、堅苦しく、分かりにくいからです。
だから、人と話すときは、なるべく優しい言葉に翻訳して噛み砕いて話す必要があります。
思ったことを思ったまま喋っても人は分かってくれない。いったん分かりやすくしないといけない。これが悲しい。
いつも何かを演じているようで、苦しい。
頭が良ければ学校で認められる、と思うでしょうか。
そんなことはありませんでした。
学校はテストで良い点を取るための場所でした。私の考えではなく、正解を導く場所でした。
現実世界に1つの正しい答えは用意されていないというのに。
教師たちは、子どもたちが「正解出力マシン」になったときにその子を褒めます。
その子らしさは見ていません。
なんだか疲れました。どこにも居場所がない。