ストレスに対するセルフコントロールに関する悩み
このようなタイトルである出来事による悩み(主に対人関係、メンタルヘルス、自分の性格)について話します。
そして、結論としては、自己解決を試みるための良い手段に繋げていきたいと思ってこの話を結論づけて話を締めたいと思っています。
<悩みの経緯いきさつ>
私はプロテスタントのクリスチャンなのですが、所属する教会でのある出来事によってまた大きなショックと挫折感、ストレスを招きました。
それは昨年5月頃の出来事でした。
教会の指導者から受けたある話がその大きな原因でした。
それは主にこのような話でした。
「君は正直言って人と関わりたくないんでしょ」とその教会指導者から強く詰められた話でした。
私はその押しに負けてしまい何も言い返す事は出来ませんでした。(内心またいつもの同じ轍を踏んでしまい悔しかったです。)
そして、強く詰められたのと同時に決めつけた言い方をまたされたのです。
《この人は何故このような言い方しかできないのか》と内心とっさに不愉快さを覚えました。
そして、私はその指導者の話は断固全否定したかったのです。
そんなはずあるわけがないのです。
最近またその一件の話を思い起こしてしまい、その当時の心境よりずっと激しく憤りを覚えるようになり、今そのような心境にあります。
「正直言って人と関わりたくないんでしょ。」
何故、断固全否定したいのか??
それは私の人生の歩み、自分の人格、自分自身を全否定されたように思ったからです。
<自分の性格やメンタルヘルスの悩み>
1、我慢癖
2、場面緘黙症のような症状の懸念
3、言いたいことが思ったように言えない
4、人と話す時言葉が上手く出てこない
5、人前で話す時、恥ばかりかいてきた、またはかかされてきたなど、上手く話せないといけないという過度のプレッシャーと不安や恐れの積み重ね
6、たとえ言い返したにしても余計事が荒くなる事への不安
7、そもそも幼少期から会話コミュニケーションする機会が顕著に足りてない欠如していたということ。〈いつも大人しく聞き分けの良いいい子にしてなさい、という押しつけ。言動することを許されなかった事。〉
8、アダルトチルドレン
特に、ロストチャイルドに該当すると判断認知している。
<考え方の修正、なりたい自分とは?>
いつの間にか「我慢する」事が習慣になりそれに染まってしまっていると痛感している。
「我慢」や「辛抱」、「忍耐」が美徳な国民性にあると感じるのは日本人なら誰しもが思うところではないのか。
しかしながらともすれば行き過ぎればメンタルの大きなストレスにも繋がるという裏の側面もあるのではないかと改めて感じる。
それも、性格的に大人しく内向的な人間の場合、それを人は「弱々しく気弱」な弱い人間としてみなされてきた日本の文化歴史があるのではないのか。
そんな性格の立場で尚「我慢」「辛抱」「忍耐」を上から押さえつけられ高圧的に抑圧されたら、その結果、その人の性格は尚どういうことになると思う??
これはあくまで私の場合に関してだが、余計萎縮して何も言えなくなってしまうのだ。
多くの課題がある中で今できることとなりたい自分とは何かと言えば
「我慢癖」という自分でも気づけなかった<やせ我慢>を改善したい事だ。
<結論:具体的な解決策とは?>
1、「我慢」「辛抱」「忍耐」の目に見えない沢山の「頑張る」という美徳を取っ払うこと
2、それが《自分をまず大事にする》事に繋がる。しかしながら、自分を大事にするイコール自分の自我を主張する事にも繋がる。
つまり、更に厳しくなる壁がある、
これまでとは大きく異なる《抵抗勢力化》して様々な邪魔立てや攻撃を受けることになる。
抵抗勢力の彼らにとっては今までの古い私のままでいてもらった方が都合がいいからだ。
私自身、いつもひるんでばかりいた訳ではもちろんなかったのである。
対抗したり反発したりした事は時にはした事が過去にはあったからだ。
しかしながらそれをした途端、いつも《聞き分けの良いいい子の自分》の評価は逆転してしまうのだ。
<まとめ>
このような具体的な解決策を自分なりに発見出来たにしても、なりたい自分になるためにはそこには人が介在するしそれを避けては通れないのだ。
教会で受けた話、「正直人と関わりたくないんでしょ」という話はある意味まんざら全否定はできないのだ。
それはそもそもそのような言い方をしているからこそなのだ。
教会指導者ともあろうお方にまで相変わらず何故安易にそんな否定から入るのだ。
もうガッカリも失望も通り越して、そんな相手を責めるより何も出来ない自分に対して情けなさや憤りの方が強いのだ。
だから、《やせ我慢しない》のと同時に、あと加えて《自分を責める憤り》からのストレスフリーやメンタルコントロールが上手く出来るようになりたいのだ。
以上です。