banner-mobile
自由
自由
#双極性障害 #躁うつ病
一般的な悩み
自由
対人関係
#不安 #パニック #ストレス
自由
自由
自由
自由
自由
自由
自由
自由
自由
自由
自由
自由
#気の合う方と繋がりたい
自由
自由
自由
あまり書くと前いた会社の人にバレるかもしれない。でも、バレても良いやと思って書いている。 去年の春に新卒としてとある会社に入社した。 4月はずっと泣いて帰ってた。覚えが悪いから何度も周りに迷惑をかけて怒らせて、お客さんへ自分の愚痴を吐かせてしまうくらいの最悪の新人だったと思う。 誕生日だった日も泣きながら帰り道を歩いて、でも家族に心配をかけたくなくて笑顔を作って家に帰った。 5月になる頃にはお昼ご飯を食べられなくなって、社内の食堂を利用せず自販機で売っているビスコを1袋と缶コーヒー1本だけお腹に入れて1日を過ごしてた。 6月になる頃には平日の朝から夕方まで視界に白いモヤがかかるようになっていた。 7月になると私以外の営業事務の先輩がコロナで会社に来ることができなくなって、別の部署の営業事務の先輩や同じ部署の営業の先輩の手を借りながら休んだ先輩たちの仕事も新人なりに必死で頑張った。それでも「どうしてあなたがその仕事をしないの?なんで他の人の手を借りたの?」とコロナで休んだ先輩に電話越しに大きなため息を吐かれながら怒られた。その月から残業が当たり前になって、その様子を見ていた他の部署の部長が褒めてきた。「たくさん残業をしていて見直した。本当はすぐに根を上げると思ってたけど。これからもバリバリ一緒に働こうな」と言われて認めてもらえたような気がした。 8月になると毎朝吐き気で目を覚ますようになった。ホームから線路を眺めることが増えた。自分で自分を傷つけるようになった。ごめんなさいとうわ言を吐き出すようになって、自分自身が怖くなってメンタルクリニックに駆け込んだ。 「その会社を辞めてください。それかすぐに休職してください。じゃないと君は悲しい結果を選んでしまうかもしれないから。勇気を出してここに来てくれて本当によかった」とお医者さんに告げられて、そこで初めて「逃げても良いのかな」と思うことができた。でも会社を休職したり辞めたり、という選択肢は選ぶことはできなかった。でも月曜日、朝の駅のホームで動けなくなって涙も止まらなくて初めて会社を休んだ。次の日に出社すると真っ先に先輩から叱咤された。「何もかも中途半端。休むのなら全て完璧に仕事を終わらせてから休んで。本当にあなたは全部が中途半端。迷惑」と言われたあの瞬間をいまだに夢に見る。 その日のうちに課長に呼び出された。 「原因はあの2人でしょ?前の新卒の子もその2人が原因で辞めちゃったんだよなぁ…」 あの2人、というのは営業事務の先輩2人だった。私のトレーナーを担当してくれていた女性と、私とそのトレーナーをまとめる立場にいる女性。そうですとも言えずに誤魔化した。 するとその日に突然席替えが決まった。2人は私が課長に席替えを頼んだのかと思ったらしい。次の日から更に無視や悪口や連絡を回してこない、といった嫌がらせを増やすようになった。 9月に入ってからはもうあまり覚えていない。 その先輩たちと仲の良かった他の部署の女性数人も私に厳しく対応したりするようになった。先輩は私への資料を投げて渡したりするようになった。もうだめだと思った。手首の傷を隠すために暑かったけど長袖の上着を羽織るようになった。ポケットには常にカッターを忍ばせるようになった。2週間を過ぎた頃に再びメンタルクリニックに行った。私は逃げる選択を取った。 診断書を書いてもらった。適応障害だった。 「決断してくれて良かった」とお医者さんは安心したように言った。 休職届と診断書を提出した。次の日に課長、部長、専務、別の部署の部長と4回の面談をした。 薄々長袖を着ていた理由に気づいていたらしかった。 4回目の面談時、「診断書なんか頼んだらいくらでも書いてもらえんねん。今の世代は親にも怒ってもらわれへんから、全てがパワハラって言うんやろな。とりあえず明日も会社に来い。絶対来れるから。でもまぁ、少しでも無理やったら休む連絡してきたらええわ」と言った専務。あの人は今も元気に笑っているんだろうか。 案の定次の日の私は会社に行くことができなくて、泣きながら電話して休んだ。そこから会社に行くことができなくなった。 10月。1ヶ月の休職を得たと思っていたけれど、「新卒は休職ができない」らしく11月付で退職することになった。 「退職理由は一身上の都合で書いてください」と言われたけれど、父は怒って「一身上の都合と書くな。適応障害になったため、って書いたったらええねん」と言った。不安がる私に「じゃあそうやって書いて良いのか聞きに行こう」と私を連れて労働局に向かった父。 パワハラの内容を答えなければならなかった時、隣にいた父に申し訳なくて、苦しくて、そして職場での出来事がフラッシュバックして話せなくなった。涙が止まらない私の背を撫でた父の手は暖かかった。担当者さんも親身になって聞いてくれて、「その内容は十分に訴えることができる。あと、退職届も一身上の都合と書かなくていいです」と言ってくれた。でもあの会社にもう関わりたくなくて、訴えることはしなかった。退職届は「適応障害と診断され、休むように指示を受けたがそれを認められなかったため退職する」といったような内容を書いた。 会社から電話が来た。でも出ることができなくて、お医者さんと労働局の担当者さんの指示通りに父に対応してもらった。 そして約半年がたった今、私は未だに働くことが出来ずにいる。好きな場所に遊びに行ったり、誰かと会うことが出来るようになったし前には元気になったと思う。 自分を傷つけてしまう頻度もぐんと減った。傷跡は残ってしまっているけれど。 希死念慮はまだ出てしまうが、ぐっと抑える別の方法だって見つけた。 それでも社会に出る勇気を未だに持つことが出来ない。覚えが悪いから、また相手をイライラさせてしまうかもしれない。またパワハラさせてしまうかもしれない。そう思うと求人サイトを見ていてもすぐ閉じてしまう。私にとって、アルバイト以外の「社会のイメージ」はその会社しかないから。 家族はこんな私を叱りつけることもなく見守ってくれている。なんなら、「貯金と時間があるうちに、ずっと行きたかった国へ旅行してみたら?」とさえ言ってくれる。 会社を辞めてからも毎月お金を家に入れる、これは自分のケジメだから入れさせてと言った私の案を渋々受け入れてくれた。それでも、やっぱり不安に思っている気持ちがあることは伝わってくるし申し訳ない。周りの人にもきっと噂は伝わっているから。 私より怒って泣いてくれた友人は今も変わらず接してくれる。ありがたいし、優しいから泣きたくなる。 私はまた働くことが出来るのだろうか。 勇気を持たなくてはいけない、でもまだ持つことが出来ないと言い訳をして社会に出ることを拒んでしまっている私が。 今も未だにあの会社の人たちのことを考えては頭を抱えてしまうし、泣きそうになる。 守ってくれようとした人もいたけれど、私は耐えることが出来なかった。 忘れてしまえば良いのかもしれないけれど、でも何回も考えてしまう。 私は一体どうなるんだろう。もし死ぬことがあった時、「良い人生だった!」と思って逝くことが出来るだろうか。後悔と申し訳ない気持ちでいっぱいになりながら逝ってしまうのではないか。 家族に迷惑をかけて、心配させて、友達にも気を遣わせて。 私は「今の私」を嫌いになりかけている。 誰か助けて。