banner-mobile
自由
自由
自由
自由
自由
自由
自由
自由
自由
自由
自由
自由
自由
自由
自由
自由
自由
自由
自由
少しずつ自分を育て直していて、いい調子。 やっとマズローの欲求階層の下から2番目を満たせるようになった。 これが私の精神をかなり落ち着かせてくれた。 その上の親和欲求も少し叶えてあげることができている。 他の人が当たり前に持っているものを持たずにこれまでよく耐えてこられたな。 昔の私、ありがとう。 行く先が破滅だとしてもいいからって、どこかに向かうために、がむしゃらにがんばってたね。 「正しい努力」に固執しなくてよかったよ。 倫理に反した行動を起こし続けてよかったって思ってるよ。 何も後悔していない。 当時の私の行動は本当に愚かだったけど、正しさは私を救ってくれなかったから、後悔してないよ。 直感を信じてよかった。 苦労知らずの的外れなアドバイスを真に受けなくてよかった。 走り続けてよかった。 自分の尊厳と身体をを切り売りせずに、今・明日の心配をせずに心穏やかに過ごせることって、こんなにも幸せなことだったんだね。 これから私にも、他の人が持っているような欲求が芽生えてくるのかな。 楽しみだ。 チャンスを掴んでよかった。 リスクを背負ってよかった。 自分を信じてよかった。 マインドカフェでこんなこと書ける日が来るだなんて思ってなかった。 嬉しいな。
自由
そういえば小学生のときに一度だけ、「羨ましい」という感情を覚えたことがあった。 保護犬を迎えたくても許してもらえず、動物の専門的な勉強をしたり、愛護センターに足を運んだりして親にアピールしていた時期に、テレビで小児病棟への保護犬来訪のニュースを観て、「暮らしの場に犬がいるのっていいなあ」「親の許可を取らずに犬と遊べるのが羨ましい」と思った。 そのまま口に出したところ、母から「そんなこと絶対に言っちゃいけない。この子達は病気で、犬と触れ合いたくても触れ合いに行けないから仕方なく保護犬が会いに行っているんだよ。元々かわいそうな思いをしている子たちなんだから、優先されないといけないの」と厳しく叱られたのを覚えている。 そのときも自分は余計なことを考えて、 「病気の子の中にも犬嫌いや犬アレルギーの子がいるかもしれない。この子たちは本当に全員、犬と過ごすことを望んでいるのだろうか?犬との触れ合いの他にやりたいことがあるかもしれないのに、保護犬との遊びだけを「快楽」と決めつけて患者さん全員に強制するのはおかしい。それだったら自分の家に犬が来てほしい。そのほうが需給が一致している」 「そもそも、「病気だから可哀想」という考え方は正しいのだろうか?病気と向き合うことで成長できたり、入院で行動の自由が制限されたとしても、大切な家族や友人がお見舞いに来てくれるだけで幸せという価値観もあるかもしれない。入院生活や闘病を経験する人は、健康な人よりも不幸なのだろうか?逆に、健康な人は全員幸せだと言えるのか?虐待されている子や学校でいじめられている人は、闘病中にたくさんの人の愛に囲まれる小児病棟の子を羨ましがるかもしれない。病気の子を羨ましがっちゃいけない理由って何だろう?」 「自分は病気になりたい・入院したいわけではないし、健康な人生を蔑ろにしたいわけではない。ただ、黙っていても犬と触れ合える環境に身を置きたいだけだ。犬の来訪サービスが、健康な人には何故充当されないのだろうか?母と私は視点がずれている」 みたいな感覚だった。 当時の自分の語彙力ではここまで言語化できなかったから母に反論しなかったけど、あのときの感情を書き出すとこんな感じ。 ※今もまだ共感できる部分と、大人になってから共感できなくなった部分の両方があるが、忠実に再現したつもり。 強く記憶に残ってるから、このときの体験が「羨望」の感情を覚えなくなったきっかけの1つなのかもしれない。 一方で当時既に、自分が経験し得ない立場のことをあれこれ想像して深く考えすぎる癖があった。それを表に出すことでよく他人と衝突していたから、きっかけとも言い切れないかもしれない(大人になった今は上記のようなことがあっても表に出さずにニコニコ笑って相手を受け入れるだけの人間に成長した) とにかく、当時から他の人とは別の方向を向いていて、勝手に色んな場所に穴掘りをしているような人間だったなあ(しかも穴掘りを楽しんでいるのではなく、義務感を持って作業している感じ) 手持ち無沙汰だから穴掘りをしてしまうのであって、斜め上をゆく発言を聞いたり、ハッと驚くような展開があったりすると、穴掘りをしなくても心から落ち着いていられる。 だから、自分は単純な人間関係を好まないんだろうなあ 自分のような人間に、友達作りは難しい。あと、人生の選択も難しい。