banner-mobile
自由
自由
自由
永遠とその先と自分 永遠とはなんだろう。 人間は永遠という言葉が好きだ。 永遠に愛してるとか、永遠に君を思うとか。何かに永遠を誓ったりもする では、永遠とはなんだろうか。 私は永遠を信じてはいない。 この世にあるものすべてに等しく寿命が存在し、等しく風化の一途をたどる。 この世の時間という概念は全てのものに対して等しく理不尽で、地球もまたその一端にしかすぎない。 地球や太陽にも寿命が存在する。 この世に存在する全てはやがて全てが宇宙の塵となる。そこに大いなる意志も何もない、等しく塵 世の中に永遠に存在するものなんて存在しない。 けど、私は永遠を信じている時もある 例えばそれは友達と空き教室でダラダラと喋っている時、お母さんとの談笑の時間 友達とふざけたあの時間、私はその時間が一生続いていくと思っていた。 比喩ではない、確かにあの瞬間の私はこんな日々がずっと続いて行くと無意識下に信じていた 当たり前だけど、そんなわけがない。 でもその時間が続くと思っていたあの時、私は確かに永遠を心から信じていた。 永遠とは、そんな尾を引かれるような名残惜しさではないかなと思う。 もっとチープにしてしまうなら、アイスを食べた後のなんの味気ももう残ってないアイスの棒をかじり続け、それを捨てた後口に残る寂しさのような、 そんなこの先ずっとぼんやりとした幸せが続いてくような思い込みから覚めたあの名残惜しさを、私は永遠だと思う。 信じられたら幸せでも、きっとそうではいられない それが永遠であるのだと思う。 永遠の愛を嫌うのは、私の中にそれがないから。 幾度となく自己解析のなかで織り込んできたことだが、 私という人間は特定の人間に愛情を抱かれることがあまり得意ではない 書き出しこそ文章が硬くなってしまったが、簡単にいうと人間不信なのだと思う。 いつもは過去と現在を結びつけることで正解に近い解釈の束を探っていくが 今回はまたそれとは別に、自分の現状を理解したい。 永遠の愛とか、それに近い単語の群の中に恋人というのが存在する 二人で何もない通りをあるいて、くだらない1日を二人で送る、時に閨を共にする 嫌まあだいぶ私の偏見に近しいが。 まあ世間様の恋人のイメージといえばこんなものだろうか 私は浅ましく愚かで、それでいて醜い。 三重苦を生地に織り込んだクロワッサンのようなカスである。 唐突な自己否定で申し訳ないが、そのカスがこれから荒唐無稽な戯言を抜かすことをどうか容赦して欲しい 私は人間に求めるハードルが恐ろしく低い。普段の生活の中で客観的にも主観的にも自分に害があると そう認定するまでにかなりの要素が必要になってくる どんな人間でもおおよそ人間であると思っているし、多少の行動の疚しさは目を瞑っていれば流れる 人間関係というのは一種の人生のコンテンツであり、ライフラインに抵触しない関係性はほとんど 娯楽と言って違いない。 だから楽しいと思える関係性なら相手の人間性などほとんど自分の好みがどこにあるかにある。 だからおおよその人の形さえ保っているのなら、あとは自分の好みで物を測るので、大して相手に求めるものもない 故に人間に求めるハードルは必然的に低くなる。 一つここで注意しなければならないのは、上記の説明というのは私のものであって私ではないということだ。 話が逸れてしまいそうなので今回は省くが私は外面で名前に沿った生き方をし、内面の人格的な部分と 多少切り離している。 つまり、外面の関わりのハードルは、コンテンツとして人を見るから、映画の好みと何ら変わりないという話である。 内面に関してはおそらくそれはもうハードルが高いとかそういう話ではないんだろうと思う。 限りなく信頼と期待が折れ曲り気色悪い人間であると思う。 ものすごく長々と語ったが、つまるところ私は内心すごく気位が高いわけである。 言いたいことはわかるが落ち着いて欲しい。 自分のことをカスだ何だと打ち付けて自分はプライドが高いのだとひけらかすつもりはない。 どうか今一度席に腰を落ち着けて欲しい。 私は傍若無人なカスで、神様がいらない部品を集めて左手縛りプレイ一時間で仕上げたようなカスであると思うのだ。 そんな人間を常人が受け入れるだろうか、否絶対に受け入れまいと百%で肯定できる。 だからこそ求めるのは、私の醜さを理解できるくらい賢く、その醜さを許容できるくらい心の広い御仁なわけである だがしかし、そんな聖人君子がわたしのことを好きになるだろうか、それもまた否、百%でありえない事象である。 もし起こり得たとするなら適切な医療機関にかからせて差し上げないといけない。もしくはその偽物聖人を私が取り違えただけである。 ここまで書いてきて、勘が良い人なら気がつくものもあると思う。 私は自意識に対しての自負が酷いわけである。 いっそ自意識過剰であって欲しい。 自分で過剰と感じられる程度の自意識と比較されたところでどうしようもないくらいには性格が折り曲がっていると思うが。 私の苦しさは常に内面にあるくせに、誰のこともそこに入れたくないが故に、他人を必要としない回復を覚えて 結果的にできたのが自意識肥大化***野郎とか笑えない。 外面のみでいうなら、恋人とやらとくだらない1日を共に酒をかっぱらって眠りにつくことも出来たであろうよ。 内面が自分を受け入れる人を拒否してるわけである。四面楚歌、孤立無援、寄る辺なし 結果的に、私に興味のない、何かを熱烈に愛し、小さじ程度の思いやりだけを私に向ける人が好き。 というとんでもないレベルの阿呆が生まれるわけである。死ねばいい。 私を好きになる人が好きではない。本当に、吐き気がする程度には趣味が悪いと思う。 永遠の愛とかその類の単語が嫌いなのは、人は変わる生き物だとよく知ってるからである。 無論それは私も。 誰かを好きだと思っているこの感情が永遠ではないことを私は心からよく知っている。 永遠の愛を心から信じられるその無垢さを心の底から羨望するほどに。 他人から与えられる永遠なんて信じられない。 でもそれよりも、多分一番信用ならないのは自分の感情であることを私はよく知っている。 どれだけ好きな人でも自分を好きだと言われると趣味の悪さに一気に引いてしまうのだからもうどうしようもない 過ぎ去るように、あまねくように、在れるままにくだらない、安っぽい日々を過ごして、それを幸せだねと笑えるような そんな私への感情をそこに持ち得ない人となら一緒に生きていけるのかもしれない。 そんな人間が存在しないことなんて、永遠の存在の不定さと同じくらいに知っているけれど。 名残惜しさを永遠と呼べるように、いつかそんな人と出会うこともあるのかもしれない
自由
自由
自由
自由
自由
自由
自由
自由
自由
自由
自由
自由
自由
自由
自由
自由
自由