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自分を受け止めることについて 私は、リワークの振り返りで「共感が得られない」ことに苛立ちを覚えた。相手の言葉が表面的に思えて、心が冷たく硬くなった。その時、私にとって大切なのは「共感」や「承認」であり、それが満たされないと存在そのものが揺らぐのだと気づいた。 そして私は「承認」のほうが特に満たされにくいと感じている。行動や成果を認めてもらう承認と、存在そのものを肯定してもらう承認の両方が欲しい。けれど、何より欲しているのは「ママ」「妻」という役割を超えて、ただ「私自身」を認めてもらうことだった。 しかし本当は、人から言われる言葉を裏付けにしている限り、それは無条件の承認にはならない。だから「自分で自分に言えるようになりたい」と思うようになった。そして私は自分の言葉でこう言葉を紡いだ――「役割を背負えなくても、あなたの役割をとっぱらっても、あなたは今のあなたのままでいい」。 けれど同時に、役割をすべて取っ払うことは難しいとも思った。私はこれまで、看護師であること、妻であること、母であることにしがみついてきた。まるで溺れる者が藁をも掴むように。内側で自分を肯定できなかったから、外側の役割にしがみついて存在を証明しようとしていたのだ。 そこから私は、「存在価値とは影響を与えることによってしか見つけられないのか」という問いに行きついた。そして「死ねば価値が証明されるのか」という危うい思考にまで流れ込んだ。しかし結局のところ、価値は死によって生まれるのではなく、生きている今この瞬間にすでに作用している。存在は「事実」であり、それを「良し」と感じられるかどうかは心の営みなのだと理解した。 私はさらに考えた。ポジティブな感情を感じられる時――美味しい、楽しい、安心する――その瞬間は存在している証であり、「ここにいていい」と結びつく入口になるのではないか。そしてネガティブな感情を感じる時も、「それを感じられる私がいる」という存在の証だと気づいた。さらに「役割や行為が果たせなくても今の自分でいい」と思えたときもまた、存在を肯定することにつながる。 やがて私は、自分にとってこれまで「外側の存在証明」は看護師であることだったのだと理解した。しかし、娘が虫歯治療の時に私の手を強く握り、不安を和らげて治療を進められる――その出来事もまた、小さな影響であり、存在の証明だと思えるようになった。ただし私はまだ「それは母だから」と役割で受け止めてしまう部分が残っている。それでも「母だから」ではなく「私だから」と感じられる芽が出てきた。 そして今、休職中という役割から外れた時間に、私は「自分で浮いてみる練習」をしている。スタバでキャラメルフラペチーノを飲みながら、「冷たい、美味しい、甘い」と感じられるのは私が存在しているからだとまでは思える。しかし「ここに居ていい」とまではまだ結びつかない。私は「休憩中だからいい」と条件をつけることで安心できるが、同時にそれが言い訳のようにも感じる。 それでも、安心と不安の両方を抱えながら、「条件つき自己承認」から「無条件の存在肯定」へと少しずつ歩んでいる――いまはその過渡期にいる。
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